歴史

 

 糸東流空手道の生みの親、 摩文仁 賢和 につながる摩文仁家は、琉球王国時代からの家系で、祖先には 大城 賢勇 という歴史上の武人がいます。流祖賢和は武で名高い 大城 賢勇(鬼大城)から数えて十七代目に当ります。
 琉球王朝時代の正史「球陽」には、「首里州に一忠臣有り。姓は夏、名乗は賢勇、俗に大城と名づく。其の人となりや、忠義剛直にして武勇無比、骨格人と異なり、勢狼虎の如し。是に由りて当時の人、鬼大城と呼ぶ。」との記述が残されています。


  ● 鬼大城のお墓に続く道


  ● 鬼大城のお墓


  ● 鬼大城のお墓(近影


  ● 沖縄市指定文化財としての説明板


  ● 夏氏大宗墓の石碑


  ● 知花城跡

 摩文仁 賢和の祖先であり、武勇で今も名をとどめる大城 賢勇は、知花城跡に眠っています。


  ● 知花城跡からの遠望 

 

 流祖 摩文仁 賢和と糸東流について

 糸東流空手道を開いた摩文仁 賢和は、明治22年(1889年)11月14日、沖縄県首里市で生を受けました。琉球王国の時代からの名門の家系で、武勇で名高く鬼大城と呼ばれた大城 賢勇から数えて十七代目に当ります。

                         ● 流祖 摩文仁 賢和

 摩文仁 賢和は、明治36年(1902年)、14歳で糸洲 按恒先生に入門して首里手を学び、19才の時に東恩納 寛量先生から那覇手を学びました。糸東流の名は、両恩師の頭文字からつけられたものです。摩文仁 賢和は、大正5年(1916年)、27歳の時、道場を開いて空手道の普及に努めた後、昭和4年(1929年)、沖縄より大阪に移って居を構え、昭和9年(1934年)に糸東流を開きました。

 空手道の発展に一生をかけた摩文仁 賢和は、昭和27年(1952年)、63歳で生涯を閉じますが、その技術と心は二世宗家 摩文仁 賢三 をはじめ、摩文仁 司家や多くの門人たちによって継承されています。 

                               ● 二世宗家 摩文仁 賢三


                    糸東流の紋には、摩文仁家に伝わる家紋が使われています。